騰落率

シェリダンはその後の戦闘では大変攻撃的だということになったが、この時は敵の小さな部隊を追撃することを躊躇し、またダニエル・マクックから北に動いてその兄の軍団を支援してくれという要請も断った。しかし、シェリダンがその前に要請していた援軍としてウィリアム・P・カーリン大佐の第31旅団(ミッチェル師団)がシェリダンの右手に付いた。カーリンの部隊は攻撃的にパウェル隊の追撃に移り、ペリービルに向かってできる限りの速さで追った。この部隊が町の西外れにある墓地に着いたとき、激しい砲撃戦が始まった。カーリンは前に押して行き、ジョージ・B・ワグナー大佐の第21旅団(第2軍団ウッズの師団)も合流した。この2個旅団はブラッグ軍の退却路を支配する重要な町の交差点を確保するために停止したが、ギルバートからミッチェルに宛てた命令で、ミッチェルの激しい抗議にも拘わらず、前進が止まった[55]。 ディックスビル交差点の防御(~ 午後5:45[56]ブラッグ軍の攻撃は大がかりな挟撃の形を取り、マクック軍団の両側面が押されて密集した集団になった。この密集はベントン道路とマックビル道路が交差するディックスビル交差点で起こった。もしこの交差点が確保されれば、南軍はマクック軍団の右翼を取り巻いた可能性があり、効果的に北軍の他の部隊から孤立させることができるはずだった。挟撃の南側部隊の動きがラッセル・ハウスに一時的に作られた戦線で鈍くなり始めた。ハリスとリトルの旅団が、クリバーンとアダムズの旅団の攻撃で行き詰まりになるまで持ち堪えた。挟撃の北側部隊はスタークウェザー隊の防御で止められていた。残った攻撃は北のマックビル道路からのものであり、バックナー師団からセントジョン・R・リドルとスターリング・A・M・ウッド各准将のまだ疲れていない2個旅団が行った[57]。 攻撃の当初の目標はジャクソン師団のジョージ・ウェブスター大佐の第34旅団だった。この攻撃でウェブスターは致命傷を負った。その死は第10師団にとって最後の上官の損失となった。師団指揮官のジャクソンおよび別の旅団指揮官テリルが既に致命傷を負っていた(その前夜、ジャクソン、テリルおよびウェブスターの3人で彼等全員が戦死する可能性について無駄話をしており、そのような考えは統計学的に無視できると打ち棄てていた)。ウェブスターの歩兵隊とハリスFX の砲兵隊がベントン道路に近い丘の上に陣取り、ウッドの攻撃部隊を粉々に打ち砕き後退させた。ウッド隊は丘の麓で再結集し、攻撃を再開した。ハリスの砲兵隊は弾薬が尽きかけたので後退を強いられ、南軍の攻撃でウェブスター隊は交差点の方向に押し込まれた。マイケル・グッディング大佐の第13旅団(ミッチェル師団)がギルバート軍団から戦場に到着し、戦闘に参加した。ウッド隊が後退しリドル隊と入れ替わった[58]。 この援軍の到着はマクックの追い詰められた軍団に対して遅すぎた救援要請の試みの結果だった。午後2時半、マクックはピーターズヒルにいたシェリダンに副官を送り、第1軍団の右翼を守るよう要請した。さらに午後3時、一番近い第3軍団から支援を得るために2人目の参謀士官を伝令に送った。その士官は第3軍団予備隊の第1師団を指揮するアルビン・F・シェフ准将に出逢った。シェフは独断で行動する気が進まず、その士官をギルバートに差し向け、ギルバートはさらに2マイル (3 km)以上離れたビューエルの作戦本部に差し向けた。マクックの参謀士官が作戦本部に到着したのは午後4時となり、それまで戦闘の騒音をほとんど聞くことの無かった指揮官を驚かせ、南軍の主要な攻撃が暫くの間続いていると信じるのが難しかった。それでもビューエルは、シェフ師団の2個旅団に第1軍団の支援を命じた。この比較的小さな約束は、ビューエルが報告を受けた悲惨な状態を額面通りに受け取ることを躊躇したことを示していた[59]。 リドル隊は交差点の東100ヤード (90 m)もない距離にある特定されない部隊に発砲した。そこからは「お前達は友軍に発砲している。お願いだから止めてくれ」という叫びが聞こえた。一翼の指揮官レオニダス・ポークは同士討ちにあったと見られる犠牲者を見定めるために馬で前に進むことにした。ポークは誤って第22インディアナ連隊の戦線に乗り入れてしまい、北軍の戦線を抜けて血路を開かざるを得ないと悟り、北軍士官の振りをして北軍部隊に銃撃を止めるよう叫んだ。ポークが逃げおおせてリドルと南軍に発砲と叫んだとき、数百のマスケット銃が一斉射撃を行い、第22インディアナ連隊のスクァイア・キース大佐を殺し、連隊の損失率を65%に高め、それはペリービルに参加したどの連隊よりも高い数字となった。リドルは攻撃を続けようと望んだが、ポークは自ら敵軍と接してきたことで狼狽しており、暗闇が訪れたことを呪って攻撃を止めさせた。FX の部隊はその物資や装備を危険の残る交差点を通って動かし、北西200ヤード (180 m)に一連の丘で戦列を安定させた。マクックの軍団は終日激しい被害を受けたが、破壊されるまでには至らなかった[60]。 私は戦争の間第1テネシー連隊が行った全ての戦闘、小競り合いおよび行軍に従った。しかし、ペリービルの戦いほど激しく競い互角に渡り合ったものを思い出せない。2人の男がレスリングをやったとすれば、「ドッグ・フォール」と呼ばれていたことだろう。両軍が勝利を主張した。両軍が鞭打って行った。 ?第1テネシー連隊、兵卒サム・ワとキンス[61] 北軍の損失総数は4,276名だった(戦死894名、負傷2,911名、捕虜または不明471名)。南軍の損失総数は3,401名だった(戦死532名、負傷2,641名、捕虜または不明228名)[62]。 ブラクストン・ブラッグは攻撃的に戦い、敵軍を1マイル (1.6 km)以上も押し込んだので戦術的な勝利を得たとされている。しかし、北軍第3軍団がスプリングフィールド・パイクを進軍したことが分かり、その日遅く知ったことだが、第2軍団がレバノン・パイクにいたことも併せると、彼の不安定な戦略的立場が明らかになった。午後9時、クロウフォード・ハウスで部下達と会合し、夜半後に撤退を開始し、自軍がスミス軍と合流する間、警戒線を残しておく命令を与えた。ブラッグ軍がハロッズバーグに向けて行軍する時に900名の負傷兵を後に残して行かざるを得なかった[63]。 グッドナイト領地にある南軍墓の石碑、2007年撮影ビューエル軍の他の2個軍団はそれぞれ、参戦した南軍と同じくらいの勢力があった。戦闘が始まったときにこれら2個軍団が大胆に前進しておれば、容易にペリービルの町を占領でき、ケンタッキー州中部にある補給庫から南軍を切り離し、恐らくはアウステルリッツの戦いやワーテルローの戦いのような戦場における決定的な勝利を得たことだろう。 ?ジェラルド・J・プロコポウィッツ、All for the Regiment(連隊にとっての全て)[64] ブラッグはハロッズバーグでスミス軍と合流し、北軍と南軍は勢力的に拮抗できるほどになって、次の週に今一度小競り合いを演じたが、どちらも本格的に攻撃しなかった。ブラッグは期待していたケンタッキー州での新兵はもはや現れず、州内に留まるために必要な兵站の支援にも欠けていると認識し、カンバーランド渓谷を通って南東のテネシー州ノックスビルに向かった。その後直ぐにアメリカ連合国の首都バージニア州リッチモンドに呼び出され、ジェファーソン・デイヴィスに向かって部下から告発されていたこの方面作戦での行動を釈明し、軍の指揮官を変えてくれるよう要請した。デイヴィスはブラッグを指揮官に留めておくことにしたが、ブラッグと部下との関係は大きく損なわれた。ブラッグは軍隊に戻ると、テネシー州マーフリーズバラへの転進を命じた[65]。 ビューエルはブラッグ軍に対して心半分の追撃を行い、リンカーンFX が望んでいたような東テネシーへの押し出しではなく、ナッシュビルに戻った。ビューエルの業績に関する不満が鬱積し、西部方面軍の再編成に繋がった。10月24日、新しくカンバーランド方面軍がウィリアム・ローズクランズ少将の下に作られ、ビューエルのオハイオ軍はその下に付いて、第14軍団と改められた(12月遅く、ブラクストン・ブラッグに取ってはもう一つの戦略的敗北となるマーフリーズバラでのストーンズリバーの戦いの後、より親しみのある名前としてカンバーランド軍と呼ばれた)。ビューエルはこの方面作戦での行動を調査する委員会への出席を命じられた。その後の1年半軍事拘置所に留まり、その軍歴は終わった。1864年5月には除隊した[66]。 ペリービルの戦いに続いて、外国為替 は戦争の残り期間ケンタッキー州の支配を続けた。歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは、ペリービルが戦争の大きな転回点の一部と考え、「アンティータムとペリービルで南軍の侵略を止めたときに、ヨーロッパ諸国のアメリカ連合国に対する調停と認知の機先を制し、おそらくは北部政府の戦争遂行能力を妨げたであろう1862年の北部における選挙で民主党の勝利を防止し、戦争の範囲と目的を拡大した奴隷解放宣言への階梯を設定した」とした[67]。 ペリービル戦場跡の一部は、ペリービル州立歴史史跡としてケンタッキー州により保存されている。